不登校児体を鍛える

なんかこう、最新情報にキャッチアップしているだけで自分はその界隈に食らいついていけてると錯覚しているようでいて、その中にいて明後日の方向の発言を繰り返すことで自分には確立されたスタイルがあるみたいな薄い虚栄心を日々再確認するためのインターネットをしているように見えていやしないだろうかと、誰が見ているわけでもないのに全方向に慮りながら自分の頭が生み出した架空の他我に怯え続けて萎縮するみたいなインターネットをするのが厳しくなってきたので、一年の半分ぐらいは鍵のついたアカウントでしか自分を運用することができなくなってしまっていたけど、来年はもうちょっと頑張って教室に戻っていきたいと思う。

常に自分が悪目立ちしている、監視されている、何らかの評価のステージにいるという錯覚は、言い換えると誰もが自分に興味を持っているという錯覚で、おそらくこういったものはすべて承認欲が形を変えたものなんだろうと禅の本を読んで気づきを得たりした。
人間の想像力は無限なので、特に妄想癖のある人間にとって、承認されたい自分の姿と現実の自分の姿には常に大きなギャップがある。

自分はやりたいことをやるとわざわざ他人に宣言するような奴が本当にそれをやるかどうかは微妙なことが多く、それは自分の持った目標とか目的を承認してほしいがために他人と関わろうとしているからだと思う。他人とのコミュニケーションの使いどころを間違えてはいけない。
承認を他人に求めるから話がややこしくなるのであって、自分で自分を承認できるようにまず訓練をすりゃあいい。
承認は欲なので記憶や思い出で埋めたり満たすことはできず、他人からの承認を得るためにはそこに必ず他人がいないといけないうえ、脳は刺激に慣れていくので同じ承認ではいずれ満足できなくなっていく。自分と常に一緒にいてくれるのは誰かというと、そりゃ自分だよなということになるわけです。

どう問題を見つければいいか、は自分で勝手に考えりゃあよく、問題解決にパワーを使うべきで、解決すべき問題を探すことにパワーを使うべきではない。問題があれば解決すりゃいいだけの話なので、解決しない問題をただ抱えこんで不満を感じるような人生の浪費をしている場合ではない。問題を解決するためにどうするか、を考えるときに取る他人とのコミュニケーションが、一番有効で建設的なものだと思う。

目標と現実の間にどれだけのステップがあるのかをまず見極める能力をつけ、一番近いところの段に乗り続ける習慣をつけりゃあよく、段に乗るたびに自分を承認すりゃあいい、ということです。

話をまとめようとしている。
これもまた存在しない誰かを意識している。

来年もあけると思います。
おめでとうございましょう。

七年間土にいて、七日間で死ぬ

勝子です。

先日ふと自分の口をついて出た言葉に「すごいと思われたくない」というのがあり、これがかなり自分を表している言葉としてしっくりくるなという気がしました。

自分の中でいくらか一般的なレベルよりも少しできるなと自覚している能力がいくつかあり、たとえば英語がちょっとできたりプログラムがちょっとできたりというようなことで、それをたまたま仕事だったりで使う機会があると、「すごい」という評価が返ってくる場合があります。

それが何となくいやで、というのも、その能力は、それを生業としていたり専門で修めているトップレベルの人に比べれば、当然たいしたことないレベルなわけで、それを指して「すごい」と言われることは、ちょっと受け入れがたいなというか、そういう感じがあります。このくらいのことができるのを前提として話をしたい、という気持ちがあるのかもしれません(傲りがすごいですね。傲り、すごくないですか?)。もしくは、目立つことを恐れているのかもしれない。出る杭になることを恐れているのかもしれない。出る杭は打たれ、私は一度打たれると立ち直るまでに時間がかかるので。あるいは、他人の中に自分の情報が増えるのが怖いのかもしれない。人に自分を知られるとそのぶん悪感情を持たれる材料が増えるので。これは、雑踏のなかで会話をすることへの恐怖に似ている気がします。会食を恐怖することにも似ている。あるいは、できると言ってしまったばかりに実力以上のことを要求されてしまい、それができなかったときに受ける失望を恐れているのかもしれない。

他人との日常会話には複雑な計算が必要でとても体力を使う。感情のパターンを把握していない相手との会話を恐れている。他人の反応が予測できない状況は恐ろしい。恐ろしいから、声が出なくなるのかもしれない。仕事なら、相手の反応は予想できるものなので、はっきりと発声することができるのかもしれない。自分のこともよくわからないまま30年近くが経ちます。

もちろん、そういったことを今までやらなかった(やる必要がなかった)人たちにとっては、縁もゆかりもない世界の知識や技術をそこそこ持っているだけでも「すごい」といえば「すごい」のだろうし、その実それはただのコミュニケーションの一環で、特に何とも思っていなくても「すごい」ということはできるし、それで会話を終わらせることができる。自分自身ですらも、場所が違えばくその役にも立たないような知識や特技をまるで自分の人生の宝のように後生大事に持ってんなコイツという人に対しても「すごい」と言ったりするので、ままならねえなといえばままならねえな、と思います。

この話にはもう一つの側面があって、私は基本的に負けたくないので、自分よりも確実に能力があり、かつ能力チンポのデカさ比べが好きそうな性格の人にはよほど用がない限り近寄らないことにしています(そして能力が高い人ほど、能チン比べをしたがる傾向が強い。偏見ですが)。

とはいえ、能力を高めるために効率の良い方法とは、「まわりの人間全部がめちゃめちゃ能チンのデカい環境の中へ、雑魚の状態で入っていって生き残る」ことだと思うので、大したことないレベルの能力で「すごい」と言われてしまうことが、ああ自分はいまそれが「すごい」という評価になってしまう環境まで逃げているのだな、能力の高い人間との交流を避けているのだな、というようなことを突きつけられるような気持ちになって、いやなのかもしれないな、と思いました。

ややポジティブにとらえるならば、「すごい」を受け入れられないことは、現状に満足していないからと言い換えられるかもしれない。もっと高いレベルの何かを得られるように、努力を続けようとしているのかもしれない。努力を続けるためには勝ってはならないし、評価されてはならない、認められてはならない。勝つためには負け続けなければならない。私は負けることも嫌いで勝つことも恐れているのかもしれない。勝ったときに私の人生の意味はなくなるのかもしれない。人生は勝ち負けではないが、勝ち負けの基準は人によって異なる。話が飛びすぎてる気がします。

という夢を見ました。

関係のない川柳を書いて終わります。

ネクタイは
男女差別にあたると思うので
やめてほしい

勝子です。

ステラ・アドラーの「魂の演技レッスン22」を読みました。

内容については、適当に概略するとステラ様に怒られそうなので、特に触れませんが、よかったです。
別に俳優になりたいわけではないですが、感情をうまく扱うヒントになるのではないかと思い。

技術にプライドを持つよりも、職業にプライドを持っていたほうがプロ意識が育まれやすいのではないかな。
技術は個であって、職業は公というか、他人の視点だから、自分の欲や都合を出して10分ぐらい遅れちゃおうとか、適当な仕事をしようという感覚を持たなくなると思います。つーか社会に出たらそれが当たり前なんだよ。いやお前らの当たり前なんかこっちは知ったこっちゃねえよ。人の体はほっとくとすぐさぼり、個人の欲は基本的に楽をするほうに向かっていっていると思うので、つまり個の意識が強いと人はさぼる。

私は演技ができるから、というよりかは、私は俳優だから、というほうが地に足がついている感じがする。

その点私なんかは職業意識が低く個の意識に寄りすぎているので、仕事をしていても午前10時ぐらいに急に無言で席を立って、徒歩十分のところまで普通にラーメン食いに行って帰ってきたりするが。

するがじゃないんだよ。駿河屋じゃないんだから。

勝子です。

何かの分野でなまじ長くやってしまったがために、プライドが先行してしまって
ひたむきに何かを学ぶことができなくなっている人間についてのお話ですが、

自分が何かを知らないということでプライドが傷つくことをとても恐れてしまうので、
知らないことに直面するとまず自分を守ろうとしてしまい、
自分が見てもわからないとか、自分の出る幕じゃないとかいって、
その問題に深く関わろうとしなくなってしまう傾向があるような気がします。

こうするとそいつがその問題から何かを学ぶということが一切できなくなってしまい、
学ぶ機会を自ら潰しながら本人はそのことに気づかず、
自分は今が持っている知識と技術だけで一生やっていけると信じざるを得ず、
成長をすることがないので自分自身の過去の一点のピークにすがり、
少しずつ劣化していく自分の人生に心のどこかで怯えつつ、
変化していく他人と世界を恨んだまま死んでいく以外にできることがなくなっていく。

こういう状態を抜け出すためには、その分野で明らかに自分の先を行っていると認めざるを得ない人間から、
技術面と精神面に関してバッキバキに正論を言ってもらうことが一番ではないかと思いますが、
そういう人間にきちんと指導してもらい面倒を見てもらえる状況に巡り合うというのもまた非常に難しいことですね。

何かを守ろうとする気持ちが強すぎるあまり、攻撃的な態度をとることが多くなってしまいがちなので、
こういう人間と接するのは非常に疲れるし、相手にされなくなっていく気がします。

私もそういうタイプの人間なので気を付けたいところです。