七年間土にいて、七日間で死ぬ

勝子です。

先日ふと自分の口をついて出た言葉に「すごいと思われたくない」というのがあり、これがかなり自分を表している言葉としてしっくりくるなという気がしました。

自分の中でいくらか一般的なレベルよりも少しできるなと自覚している能力がいくつかあり、たとえば英語がちょっとできたりプログラムがちょっとできたりというようなことで、それをたまたま仕事だったりで使う機会があると、「すごい」という評価が返ってくる場合があります。

それが何となくいやで、というのも、その能力は、それを生業としていたり専門で修めているトップレベルの人に比べれば、当然たいしたことないレベルなわけで、それを指して「すごい」と言われることは、ちょっと受け入れがたいなというか、そういう感じがあります。このくらいのことができるのを前提として話をしたい、という気持ちがあるのかもしれません(傲りがすごいですね。傲り、すごくないですか?)。もしくは、目立つことを恐れているのかもしれない。出る杭になることを恐れているのかもしれない。出る杭は打たれ、私は一度打たれると立ち直るまでに時間がかかるので。あるいは、他人の中に自分の情報が増えるのが怖いのかもしれない。人に自分を知られるとそのぶん悪感情を持たれる材料が増えるので。これは、雑踏のなかで会話をすることへの恐怖に似ている気がします。会食を恐怖することにも似ている。あるいは、できると言ってしまったばかりに実力以上のことを要求されてしまい、それができなかったときに受ける失望を恐れているのかもしれない。

他人との日常会話には複雑な計算が必要でとても体力を使う。感情のパターンを把握していない相手との会話を恐れている。他人の反応が予測できない状況は恐ろしい。恐ろしいから、声が出なくなるのかもしれない。仕事なら、相手の反応は予想できるものなので、はっきりと発声することができるのかもしれない。自分のこともよくわからないまま30年近くが経ちます。

もちろん、そういったことを今までやらなかった(やる必要がなかった)人たちにとっては、縁もゆかりもない世界の知識や技術をそこそこ持っているだけでも「すごい」といえば「すごい」のだろうし、その実それはただのコミュニケーションの一環で、特に何とも思っていなくても「すごい」ということはできるし、それで会話を終わらせることができる。自分自身ですらも、場所が違えばくその役にも立たないような知識や特技をまるで自分の人生の宝のように後生大事に持ってんなコイツという人に対しても「すごい」と言ったりするので、ままならねえなといえばままならねえな、と思います。

この話にはもう一つの側面があって、私は基本的に負けたくないので、自分よりも確実に能力があり、かつ能力チンポのデカさ比べが好きそうな性格の人にはよほど用がない限り近寄らないことにしています(そして能力が高い人ほど、能チン比べをしたがる傾向が強い。偏見ですが)。

とはいえ、能力を高めるために効率の良い方法とは、「まわりの人間全部がめちゃめちゃ能チンのデカい環境の中へ、雑魚の状態で入っていって生き残る」ことだと思うので、大したことないレベルの能力で「すごい」と言われてしまうことが、ああ自分はいまそれが「すごい」という評価になってしまう環境まで逃げているのだな、能力の高い人間との交流を避けているのだな、というようなことを突きつけられるような気持ちになって、いやなのかもしれないな、と思いました。

ややポジティブにとらえるならば、「すごい」を受け入れられないことは、現状に満足していないからと言い換えられるかもしれない。もっと高いレベルの何かを得られるように、努力を続けようとしているのかもしれない。努力を続けるためには勝ってはならないし、評価されてはならない、認められてはならない。勝つためには負け続けなければならない。私は負けることも嫌いで勝つことも恐れているのかもしれない。勝ったときに私の人生の意味はなくなるのかもしれない。人生は勝ち負けではないが、勝ち負けの基準は人によって異なる。話が飛びすぎてる気がします。

という夢を見ました。

関係のない川柳を書いて終わります。

ネクタイは
男女差別にあたると思うので
やめてほしい